東方 比那名居天子

狂雲・天

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 私は完全に正常である。
 これは天界のみならず、すべての世界に一致した基本的見解であり、どのような奸策、密謀、佞言によっても突き動かされるのことのない絶対的な真理である。疑うのならば、今すぐに是非曲直庁にあるであろう浄玻璃の鏡を持ってくるといい。私の潔白が完全無欠の超絶怒涛に証明されるはずだ。
 完全に正常である私であるからこそ、望むものは混沌である。完全は常に完全であるからこそ、常に不完全であるものを求める。幻想郷がそれである。私にとって異変はなくてはならないもので、さながら甘露が舌先に落ちるように美味なるものだ。
 衣玖がいた。
 私は完全に正常だが、彼女は完全に狂っている。可哀想に。世界はあまりにも彼女にとって苛烈でありすぎた。今や彼女は妄想世界の住人であり、現実世界の私たちとは一線を画してしまっている。
 だが、それもまた一種の完全性なのかもしれない。完全に狂っているがゆえに、完全なる美を有しているのだ。
 そう考えると、うらやましく思う。ああ、とてつもなく。
 たまには話をしに行こう。なぜなら、私は完全に正常であるために、狂乱する永江衣玖という材料によって生まれる波紋が必要なのだ。いつもいつもケーキでは生きられない。ブリオッシュが必要だ。
「妄想しているようね」
 衣玖がこちらを見た。彼女の瞳は今日も赤い。完全に狂っている赤だ。もはや取り返しがつかない。月を見すぎたのか。地上に恋い焦がれたものか。もはやどんな救済も受け付けないだろう。
「地上が滅んでしまいました」
「そう」
 言われなくてもわかっている。地上はすでに滅びているのだ。なぜなら、私が完全に正常である限り、歪曲にして猥雑である地上は存在そのものが規定されないためだ。唯一の例外が幻想郷で、しかし死の帳がかの地を覆ってしまわぬように、いくつかの試みが必要なのだった。
「また異変を起こそうと思うのだけど」
「やめておいた方がよろしいですね」
「なぜ?」
「そう言うのが私の役目だからですわ」
 私は完全に正常であり、衣玖は完全に正常でない言葉を吐く。通して見ると、完全に正常に物事は運んでいる。たとえ神の手が地上を真っ二つに引き裂いてしまったとしても、私は正常で、以後も正常であり続けるだろう。誤った世界は是正され、正しく正常な私のものも同然となる。
 衣玖は空を見て、そこに色を見出している。その光景を見たいと思ったが、私は完全に正常であるため、そこから先を貫徹できない。さながらファランへのラッパの音が盛大な歓呼によって迎えられるように、理性的で常識的で怠惰的な結末へと至ってしまう。
「衣玖」
 私は言ってやった。
「貴方、おかしいのね」
「おかしい?」
「気が狂っている」
「まさか」
 衣玖は笑みを返してきた。
「そんなものは吸血鬼くらいなものです。それも五百年弱ほど監禁されているような」
 なんと矮小なる比喩だろう。そのようなことは砂漠でうずくまる三つ目のラクダでも知っているようなことだ。まさか瓦解が身も心も分割してしまったわけではなかろうに。
 私の内なるメートヒェンは永江衣玖を心から哀れんだ。煩悩によって統率された戦列に加わることを強要された雌熊が、さながら首から大樽を下げて行進するように、私の心は冥加に真っ向から対立する。そこに憐憫以上の何物もなく、大使の話によれば更迭されるのも時間の問題に思えたが、私は完全に正常であり、衣玖は不完全に狂乱のただ中にあるゆえに、誰もがその責任を引っ被ろうとはしないように考えられた。
「衣玖」
 私はまた彼女の名前を呼んだ。あの世に送り出そうとするように。
「貴方はどこまで泳ぎ続けるつもり?」
「この世の果てまで」
 ならば、私の肝臓を食え。
 そう絶叫したい気持ちに晒されながら、すべての木々の枝々に吊るされた首々は自壊する。
 嗚呼、見えるか。見えているのか。見えていないのだろうか。私はここまでやってきた。貴方もここまでやってこい。そうでなければ、いずれ食われる。飲み込まれる。消失してどこにもいなくなる。
「総領娘様も一緒にいかがですか?」
「私は常識と良識を知る天人よ。遠慮させてもらう」
 遠謀深慮は些少のこと。その先にあるものは大胆と簡単と龍膽で武装した三千世界の清き乙女だ。
 それは私か?
 それとも衣玖か?
 どちらでもない何者かであるのか?
「あまりご無理はなさいませんように」
「私としては、貴方が心配よ」
「そうですか?」
「そうですとも」
 不可思議なことを言う。完全に正常な私が他者に対して心配りをしないはずがないのに。
 それとも、悪夢のフォーマルハウトが南溟に沈みゆく日が来るというのだろうか。延々と口舌によって世界を支配した末に、素っ首を掻き切られるような真似はごめんだ。
「何かあったら、すぐに言いなさいな。私の力で何者をも黙らせてあげるわ」
「お心遣い、痛み入ります」
 いいだろう。やはり衣玖は狂っていて、私は完全に正常だ。
 それでは、レンブラントと顔真卿が手を取り合って夢見た桃源郷の俯瞰図にも似て、アッカドの為政者たちが百万の命以上に欲した桃源郷へ行こうではないか。
 私は衣玖の前に出て、雲の先へ先へ先へ先へ向かって、飛越した、飛翔した、飛行した、飛来した。
 完全に正常な私の心を理解できる者は、この世に存在しない。ならば飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ砕け散れ。
 玉と散りゆくその先に、法悦が静かに佇んでいる。すばらしい世界の終結、躍り上がるべき終末の美学。
 歓呼せよ。私は此方から、彼方へと向かうのだ。五衰など知ったことか。かくて明発なる清廉は極まり、私は完全に正常たるを証明する。

-東方, 比那名居天子

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